13/01/03
もういっちょ実話系(ロボトミー)
昭和33年6月5日、坂本一仁は河口湖畔で生まれた。
銀行員だった父親は仕事と家庭を放り出して行方がわからなくなっていた。
母岩瀬幸子(24)は一度は一仁を堕ろそうとしたが、割烹旅館で働きながら一仁を産んだ。
生後3ヶ月の頃、母は上京し、新宿のクラブに勤めた。
一仁は甲府の祖母と2人で育った。
母は学齢になったら一仁と暮らすのを夢見ていた。
母はホステスをやめ、池袋でスナックをやっていた。
昭和40年4月、一仁は上京し日之出小学校に入学した。
しかし、5月に知恵遅れとして大塚台小学校特殊学級に転校させられた。
一仁は目をパチパチするようになり、1年生の終わり頃、
一仁は数秒から10数秒、瞬間的に意識をなくす発作を起こした。
昭和42年1月19日、担任教師の紹介で、都立梅ヶ丘病院に通院した。
投薬を受けたが、1人で通学し、問題なく友達と遊んだ。
11月23日、全身けいれんの発作を起こした。
翌8月に2度目の発作を起こし、梅ヶ丘病院に入院した。
なじめず、1週間で退院した。
母は池袋に近い病院を希望し、東大分院精神科外来を紹介された。
分院で検査をしたが検査結果に疑問があると、東大脳外科を紹介された。
一仁は検査を嫌がった。
それで検査には全身麻酔が必要だと入院する事になった。
11月22日、一仁は入院した。
25日、脳外科の長、佐野圭司教授が大勢の弟子を連れて回診した。
佐野は一仁のカルテに「難治性てんかんでステレオ(定位脳手術)適応」と書いた。
検査の前日、1回の回診で検査入院をしたはずの一仁が
ロボトミー手術を受ける事になってしまった。
病院はいつまでも一仁を退院させなかった。
母はやっと一仁を退院させ、分院に通院させた。
投薬で症状は落ち着いて来た。
昭和44年11月27日、朝11時、東大脳外科からの突然の電話で一方的に入院を言われた。
母は一仁を早退させ、病院に連れて行った。
12月2日、頭蓋骨に穴を空けて脳波を調べるなどの検査を受けた。
6時間以上かかるつらい検査だった。
12月11日、一仁はロボトミーをされ、12月30日、歩く事もできず母に背負われて退院した。
発作も続いていた。
昭和45年1月3日、朝から何度も発作を起こした。
母は病院に連絡した。
1月8日の再入院を指示された。
入院した。
1月20日に2度目のロボトミー手術が行われた。
1度目も2度目も検査名目で手術だという事は知らされなかった。
2月7日、一仁を病院から退院させるよう連絡があった。
悪化していた。
主治医は冷たかった。
一仁を捨てたのだ。
2月15日、退院。
寝たきりの一仁は1日中「ウルトラマン」と「仮面ライダー」の主題歌を聞くだけで、話す事もできなかった。
曲が終わると、一仁が母にだけわかる声でせがむ。
母は何度でもテープを再生した。
床ずれが酷かった。
一仁にはヒダントールF錠が処方された。
副作用で歯肉が増殖し、口の外にはみ出した。
流動食しか食べられない。
1口ごとにむせて、まわりは嘔吐物で汚れた。
舌が喉の奥に沈み呼吸困難になった。
眠っている時は顎を上げておかなければならなかった。
母は往診を依頼した。
だが、担当医は連れて来いと取り合わなかった。
病院に行っても、担当医と会う事もできなくなった。
知り合いだった保険関係の新聞記者が顔を出してくれた。
すると、医師はすぐに出て来て往診を承諾した。
態度がまったく違った。
往診はおざなりだった。
手ぶらで来て、スリコギを出させ、一仁の体を叩いて見るだけだった。
貧しい母子家庭と見てか、馬鹿にしきっていた。
一仁は衰弱して行った。
母は病院の対応が許せず、弁護士に会った。
昭和48年6月、母は訴訟を起こした。
昭和49年3月21日、一仁は死んだ。
18歳だった。
裁判は続いていた。
引用元:https://toro.5ch.net/test/read.cgi/occult/1354965796/
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